冒険好きは子供の頃から
子供の頃、家の横に父が営む工場がありました。そして周りは田んぼばかり。いつも近くの田んぼの脇道に咲いている草花を取ったりして遊んでいました。しかし、それだけでは退屈。手提げカバンに、ジュースとお菓子を入れて自転車で出発!家から少し離れたところまで一人で「冒険」に行くのが好きでした。いつもと違う景色、一人で違う道を行く。誰かと違うことをしたい、新しい体験をしたい、行ったことのない道を歩いてみたい、そんな冒険心は幼少期から変わっていません。
周囲に馴染めなかった学生時代
そんな冒険好きな私でしたが、小学生の時は引っ込み思案な性格で、みんなでワイワイ騒ぐとか、外で走り回って遊ぶ、そんなタイプではありませんでした。教室で友達とおしゃべりしたり、絵を描いたり。目立たない、目立つのが嫌な性格でした。
中学生になると、他校の生徒と一緒になり友達付き合いが広がります。しかし・・思春期ということもあり、友達とぶつかることもしばしば。中学3年生になった頃には、友達関係がこじれ、今まで仲の良かった友達からも無視されるなど、登校拒否までにはいかずとも憂鬱な日々でした。毎日「早く卒業式の日が来てほしい」そう願っていました。成績もイマイチ、勉強なんて楽しいと思ったことは一度もない。5段階評価の2〜3が平均。そんな私でしたが、唯一美術の成績だけは「5」だったんです。3年間。
きっかけは、中学1年生の時の担任の先生です。美術の先生でした。美術の時間になると、いつも私の作品を見て「お前、すごいな!」「お前、上手やなー!」と褒めてくださるんです。最初は、褒められるのに慣れていないのもあって、先生が大袈裟に言ってるだけだと思っていました。私はただ普通にやっているだけなのに、すごく褒められる。なんだか恥ずかしい気持ちでした。しかし、クラスで評価されたり学年で評価され、成績にも反映され自信になってきたんです。
思い切って飛び込んだ新しい世界
中学3年生の進路相談の時、受験する高校を先生に勧められました。しかし、その学校は受験する友達がたくさんいて、またその環境に身を置くのか嫌だったんです。
誰も私のことを知らない世界に行きたい。何もないところからスタートしたい、そんな風に思っていたところ、デザイン学科のある高校を見つけました。
自分の行ってた中学校からは、誰も受験しない学校。まさに新天地に行ける!それだけの想いで、受験を決意。誰かと違うことをしたい、新しい体験をしたい、行ったことのない道を歩いてみたい、これまた冒険心です。
とはいえ・・・デザインの専門学科がある高校。美術が好きとはいえ、本当にこの学校を受験しても大丈夫なのか??と不安にも思いましたが、その時もまた美術の先生が救ってくださいました。
ある日の放課後、美術の先生と廊下ですれ違いました。その時に先生が「お前、あの学校受けるんやって?お前やったら、きっといけるよ!」そう声をかけて下さったんです。それで一気に不安が消えました。当時の美術の先生は、私の得意を見出し伸ばして下さった恩人です。当時の経験がなければ、今のデザインの仕事にはつながっていなかったことでしょう。
とにかく社会人になれ!という父の教え
高校はまさに新天地。私のことを知る人が誰もいない環境で、毎日が新鮮でした。この高校を選んで本当によかった!!そんな高校ライフを送っていました。高校3年生になり、これからの進路を考えた時、何もやりたいことがなかったんです。そもそも、この学校を選んだのもデザインをやりたいからというよりは、環境を変えたかったというだけだし、得に美大や芸大に興味があるわけでもない。そうだ!ファッションには興味あるし、デザイン系の専門学校とか面白そうかも!そんな安易な考えで両親に相談したところ、即反対・・(泣)理由は「そんな中途半端な考えでは学費は出せない」今考えると最もな意見なのですが、当時の私には親から否定された気持ちでした。
しかし、父からは「とにかく社会人になれ。一回でも外で働いたら、お前はもう大人や。大人になったら一人前とみなす。何でもやったらいいし、何も口出しはせん」と言われ・・・高校卒業後、すぐに就職をします。タオル工場の仕事。高卒18歳の私は、技術も知識もなく工場の掃除から始まりました。タオル工場は、糸を扱うのでホコリが多く、毎日ホコリと汗まみれ。周りの友達はみんな遊んでいるのに、私は毎日同じ時間に同じ電車に乗り、退屈な職場へ行く。毎日辞めたいと思っていました。私は何をやっているんだろう?もっとステップアップしたい、スキルアップしたい、そんな想いが沸々と湧いてきたのです。
仕事を辞めると決めた時も、父は何も言いませんでした。
「お前はもう大人や。好きにしたらええ」
周りの友達が遊んでいるなか、私は社会人として夏休みや冬休みもなく働いていたので、貯金は貯まっていました。学校就職から1年後、会社を辞め貯金を元手にパソコンスクールへ入学します。まだパソコンが世に出たころ「Windows95」が出だしたころでした。パソコンスクールでは、グラフィックデザインコースを選択。無我夢中でした。家にあった父が買ったパソコンで、毎日夜が明けるまで没頭しました。当時はまだインターネットが普及しだした頃、知らない人とメッセージのやり取りをしたり、新しい世界を見つけ、毎日が新鮮でした。そんなある日、ふと仕事を探してみようと思い立ちました。自分のできること、できないことをネットに書き込み・・
そして、私の人生を変えるキッカケとなった会社と出会います。
独学で学んだデザイン
インターネットで出会った会社は、ソフトウェア開発の会社で、主に日本全国のテーマパークや、ゲームセンターなどのアミューズメントシステムの開発を行っている会社でした。今までテレビで観てたような華やかな業界でなんだか夢のようでした。入社時、私はデザインの知識やスキルもなく、ソフトの使い方さえわからない状態でした。パソコンスクールに行ってたとはいえ、学校で学ぶのと仕事では訳が違います。実際の現場になると全く使いものになりません。それどころか、皆さんが喋っている言葉や単語すら聞いたことなことばかりで会話にもついていけませんでした。プログラマーや、デザイナー、プロの集団に紛れて技術も経験もない私にできることは、オフィスの掃除や雑用から始め、事務や経理をしていました。
しかし、オフィスには様々なソフトやデザインの専門書、技術書がたくさんあり、毎日空き時間に手に取っては、本を見ながら技術を学びました。そうしているうちに、デザイナーの先輩方が声をかけてくれるようになり、彼らに教わりながら技術を身につけていくうち、仕事を任せてもらえるようになりました。
その会社で働き始めて5年経った時、新たなチャレンジをしたくなりました。仕事や旅行で海外に行く機会が増え、次第に「海外で働きたい!」と思うようになったのです。仕事も任され、自分に自信がついてきて、海外で私はどこまで通用するのか?そんなことを考え始めました。そして、知人の紹介で海外企業の斡旋会社へ登録すると、すぐにオファーがきました。
海外へのチャレンジ 〜ハワイでの冒険〜
オファーがきたのは、ハワイの企業。Tシャツのプリント工場で、Tシャツのデザイナーとして採用とのことでした。
ハワイは常夏の島、幼稚園、学校のユニフォームはほとんどがTシャツ。そして、観光の島なので、多くの有名ホテルやレストランは観光客向けにオリジナルのTシャツを作ります。そのほか、イベント毎にTシャツを作ったりします。なので、Tシャツの需要が多くメーカーは多いのですが、中でも私が採用された会社はオアフ内でもメジャーな会社でした。彼らは「サンリオUSA」のライセンスを持っており、当時ハワイで唯一「ハローキティー」を製作できる会社でした。
当時、私は英語がほとんど話すことができませんでした。社内で日本語を話せる人は誰もいません。しかし、私はデザインができたおかげで彼らとコミュニケーションをとることができました。使用しているソフト「Illustrator」や「Photoshop」は基本的には英語。ただ英語表記になっているだけで、日本で使っているものと同じ。
なので、彼らの要求は100%は理解できなくても、聞き取れるワードから何を言いたいのか、どういうデザインなのかを想像することができました。
彼らの要求に対して、デザインで応える。そうしていく内に、自分の言葉で伝えることが難しくても、私がどういう感覚を持っていて、どんな技術や知識を持っているのか、なにを伝えようとしているのか、を表現することができました。
こうして彼らとコミュニケーションをとっていくうちに、仕事が認められ、仕事を任せてもらえるようになり、私は会社にとってどんな人間であるか、という存在感を確立することができました。私が手がけていた仕事は、USA版ハローキティー、その他日本のクライアントも多く、日本語が話せるということで、仕事を任せていただきました。
当時、日本で人気だった某アイドルグループがハワイでコンサートツアーを年に数回開催しており、そのツアーのメインデザイン、イベントグッズのデザインなども手がけました。そのほか、アメフトチームのユニフォームなどです。
ハワイでの経験は、私にとって何もかもが初めての経験でした。まず、一人で生活すること、海外で生活するということ、海外で仕事をするということ。誰も私のことを知らない土地で、生きていくには、まず自分のアイデンティティを示さなければならない。
私の場合は、デザインが武器でした。デザインがあったからこそ、切り開けたと思っています。そしてその経験が今の自信につながっています。ハワイでの冒険は、私のクリエイター人生の大きな分岐点といっていいでしょう。
海外へのチャレンジ 〜ニューヨークでの冒険〜
ハワイは誰もが知る楽園、そんな環境で生活をし、仕事ができるのは大変幸せなことであり、毎日がエキサイティングでしたが、1年半というビザの期限を経て、日本へ帰国しました。しかし、海外で働きたいという目標を達成してしまい、帰国してもその先の目標が持てずまた日本の企業に勤めます。しかし、ハワイでエキサイティングな毎日を経験した私は、日本での企業の態勢に窮屈さを感じてしまいます。
「もっと自由に自分の個性を表現したい」そう思うようになりました。
もう独立するしかありません。そう決めたらすぐに行動。28歳の時に独立をしました。
私はデザインの歴史などには一切興味はありません。好きなのは現代アート。そうなれば、本場のニューヨークで本物のアートに触れようと、一人で旅行に行きました。マンハッタンへ着き、その街からみなぎるエネルギーに圧倒されました。人種、文化、昔も現代も入り混じり、すべてが共存している。
興奮しながらも、街の隅々を食い入るようにひたすら歩き回りました。
1週間滞在し、アートギャラリーを歩き回りました。そして思ったことは「ニューヨークで作品展をしたい。自分の力を試したい。」でした。
そして、旅行から帰国し早速ニューヨークで作品展をする方法を調べます。インターネットで探していると、「日本人クリエイターのグループ展」というプロジェクトを見つけ、早速応募し、ニューヨークでの展示会出展のチャンスを得ました。
それまでの私は、仕事上のデザイン「依頼されたものをデザインする」ということしかしたことがなく、その時初めて「作品作り」を経験し、それはまさにデザインでもって自分のアイデンティティーを表現、アピールする。ということでした。
そして、初めて経験する海外での展示会。3点出展したうち、1つの作品が売れました。購入してくれた人は、友人のバースデイプレゼントに贈るとのことでした。
日本の場合、クリエイター、アーティストの地位は、過去にどんな実績があるか、どんな企業と仕事をしたかなどの「功績」によって評価される傾向にあり、実績の少ない無名のクリエイターや、アーティストの価値は認められにくい、そういう傾向にあると、私は感じています。
しかし、ニューヨークに行ってみると、どこのアートギャラリーも気軽に入れ、街のいたるところにもアートが存在し、日常的にアートを楽しむ文化が確立されていると感じました。だから、実績に関わらず、ただ目の前の作品を評価する。
初めての作った作品が、海外で売れた。自分のアイデンティティが認められた瞬間でした。この時の高揚感は忘れられません。
この小さなきっかけが私の大きな自信につながりました。そして、この展示会で得たものはそれだけではありません。オープニングパーティーには、キュレーターや、出版・広告業界の方たちがたくさん来られていて名刺交換をしました。
現地のビジネスパーソンの方々と話ができたのも貴重な経験となりました。そして翌年、再度同じグループ展に出展しました。しかし、今度は作品展のみならず、自分の足で自分を売り込みに行こう!と思い立ち、営業ツールとしてオリジナルTシャツを100枚制作。これをすべて売り払うくらいの気持ちで乗り込みました。なぜTシャツにしたかというと、ハワイでの経験で、Tシャツ制作のやり方をわかっていたので、これが今の自分にできる一番の早道だと考えたのです。
ニューヨークでのつては一切なし。頼りは、前年のグループ展で出会った方々の名刺10数枚のみ。事前にアポを取り、Tシャツを持って訪ね歩きました。
今では考られない、無謀とも言える計画。1年前に名刺交換をし、一瞬喋ったくらいの日本人と誰が会ってくれるというのでしょうか。笑
若さゆえ、無知だからこそできた行動だったと思います。しかし、この私の無謀とも言える行動が思わぬ展開を迎えます。
私の突然のメールにも親切に対応してくれた人が二人いました。
展開その①「トランプタワーで映画のようなシーン」
メールに応じてくれたその男性は、「一度私のところに来なさい」と連絡をくれ、指定された場所へ行くと、そこは彼のオフィスでした。どこぞの者ともわからない私の話を真剣に聞いてくれ、ある人を紹介してくれるとのことでした。
招かれたのは、なんと全米で有名な某チェーン店のオーナーのご自宅でした。トランプタワーにある一室。マンハッタンの絶景が見下ろせる広い部屋に、グランドピアノが一台。
まるで映画のような、日本では考えられないようなシチュエーションに感動しました。ご本人は不在にしていたものの、奥様を紹介していただきました。彼女はメディアの仕事も多く、宣伝のPRツールとして、何かデザインを考えて欲しい。ということで、のちに提案させていただく、という約束を取り付けました。
展開その②「ニューヨークでまさかのTV show出演!?」
メールに応じてくれた親切な男性二人目は、ローカルテレビの番組プロデューサーでした。ファッション関係の番組制作をしているとのこと。「一度、スタジオに来ませんか?」との返信にビックリ!半信半疑のままスタジオに行きました。
すると、私の話を聞くやいなや「僕の番組で、Tシャツを発表しないか?」とのこと。突然の申し出に、信じられませんでしたが、願ってもない誘いに私は二つ返事でOKしました。
しかし、帰国の予定が迫っていた私は「3ヶ月後に必ず来ます。その時まで待ってもらえますか?」と尋ねると、彼も快くOKしてくれました。番組ではファッションショーという形で進行、私のデザインしたTシャツをモデルが着て紹介するという内容です。
帰国後、すぐにショーのための制作準備を始めました。
デザイン、Tシャツの製作、ニューヨークの方ではモデルの手配などはすべて彼が行ってくれました。そして三ヶ月後、ショー向けに製作したTシャツを持って、ニューヨークへ。
準備していたモデルさんたちも、まだまだ無名の人たち。しかし、ショーに出演できるとあって、意気揚々としていて、ものすごいエネルギーを感じました。私も含め、ニューヨークで何かを成し遂げたいという同じ志をもった人たちでひとつのショーを創るということは、大変刺激的でした。
この番組に誘ってくれたプロデューサーの彼も、とても私に感謝してくれ、その年のニューヨークファッションウィーク(その年のファッショントレンドを決める世界的なコレクション)に招待してくれ、本物のファッションショーを見ることができました。
このように、日本ではありえないような展開をニューヨークで経験し、私の中に確立した想いは、日本の社会の枠組みに捕らわれていてはいけない。海外へでて、もっと多くの価値観に触れ、臆することなく自分を表現すること。すると必ず道は拓ける。ということです。
謙遜を自信に変えて
日本では「謙遜」という言葉があります。日本の社会では「謙遜」が美徳とされています。
ビジネスにおいてもその風潮はあります。デザインとは「物」ではない。自分の感性、いわば自分自身です。なので、自分自身の価値を自分で下げていては、周りの評価は下がるだけです。
海外での経験で思ったことは、
一つ目、
目の前の作品がすべてだということ。そこには、過去の実績や評価は関係なく「実力主義」という土壌が確立されている。
二つ目、
デザインは世界共通のコミュニケーションであるということ。その目の前の物が、美しい、面白い、かっこいい、かっこ悪い・・などの感覚は言葉を介さなくても、お互いに共感し合える。そこには、国、文化、人種関係なく、人間同士のコミュニケーションが生まれる。
三つ目、
だからこそ、怖気付くことなく、堂々と自信をもって、自分のアイデンティティを表現できれば、確実にチャンスは広がる。
そして、すごく印象的だったのは、出会う人それぞれ、自分のアイデンティティを確立していて自信に満ち溢れている、そう感じたのです。
ギャラリーで会ったクリエイターさんや、TVショーで出演してくれたモデルさんたちも皆、堂々と「私はシンガーよ」「私はアクトレスよ」などと自分をアピールしているのを見て、「私は〇〇だ!」と言えていない自分が恥ずかしく思えました。
そんな体験から見出した、私の次なる冒険は・・・
「ニューヨークで何かを成し得たい」
しかし、それが何なのかわからない。とにかく、自分はここへ来て単なる外国人ではなく、自分のアイデンティティ「私は〇〇だ!」と言える人間になりたい。そのためにはまず地盤を固めよう!その想いで帰国、法人化へとつながります。
自社のアイデンティティを表現できるもの
自社商品・アクセサリーブランド「Kilarespect キラリスペクト」を開発、販売
起業、法人化しても、なかなか自分の想い通りの仕事につけず、悶々とした日々を過ごしていました。どうやったら、ニューヨークへ行けるのか・・・。元々自分のブランドを作りたいと考えていたので、ニューヨークで何かを展開していくために、自社商品を作ろうと考えました。そんな時、仕事で訪れたとある工場で端材が目に留まりました。工場では不要なものとされていますが素人の私たちには、とてもユニークなものに見えました。
そこで、ニューヨークでの光景が蘇りました。築100年以上経つビルがおしゃれなアートスタジオに、衰退した工業地帯がショッピングスポットに。
ブランドのコンセプト「本来その人やモノが持っているキラリと光るものを見直し輝かせる」はこの時に生まれ、工場の端材の個性を活かしたアクセサリーとして企画・生産・販売までを自社で行いました。
念願のニューヨーク・ソーホーにあるセレクトショップにて委託販売スタート
「ニューヨークで何かを成し得たい」そんな想いで起業し、走り続け、ご縁あってニューヨークでの販売がついに決定。
あなたの一歩踏み出す勇気を描く「冒険デザイン」
険しきを冒す、と書いて「冒険」と読みます。できるかわからない、リスクはある、怖い、不安はあるけど・・・でもやってみたい!自分の気持ち、直感に素直に従うことで必ず世界は拓ける、見たことない景色が待っている。そんな冒険を何度もしてきました。だからこそ、私たちは皆さんの叶えたい夢、一歩踏み出す勇気に寄り添い、冒険を一緒にデザインしていきたいと常々考えています。
次なる冒険は、みんなの夢を叶える場所をニューヨークにつくること
自社で商品開発~販売を経験したことで、実際にものづくりをしている企業が抱えている悩み、課題を自らの肌で感じました。次の目標を考えた時、まずは自社の強みである企画力、デザイン力を活かして皆さんのお役に立てることから始めようということで立ち上げたのが「キラリスペクト・プロジェクト」です。
自社で経験した海外展開における様々な問題や、大変だったことを、これから海外にチャレンジしたい人や企業と共有し、海外ビジネスを起こしたい。そのために、ニューヨークに拠点を作ろう!そう考えています。
自社商品開発は、企業が抱える課題解決と可能性を広げ、未来を創る
弊社では約10年の間に、200社近くのものづくり企業を取材し、プロモーションに関わってきました。そんな中で「自社商品」の展開をしたいと相談される企業が多くあります。
その理由として、物資の高騰や価格競争、業界の衰退による新たな収益源の開拓、そして別分野へ展開することで本業(既存事業)への相乗効果を得たいという想いがあるからです。
私たちが経験した「自社商品」へのチャレンジは、本業に良い影響を及ぼしました。今まではクライアント向けの制作物であったため、容易に外部に見せることが出来ませんでした。しかし、自社商品であればオープンにできるので、自社の技術やサービスの説明がしやすくなり、発想力・企画力を理解してもらえる機会にもつながりました。
また、実際にエンドユーザーとコミュニケーションを取ることによって、市場をより理解することができたこと、直接感謝の気持ちを受け取ることができたことが、社内のモチベーションとなり、大きな変化を与えました。
私たちが掲げる目標、ニューヨークへの道 5ヶ年計画
海外でチャレンジしたい、とはいえチャレンジの「場」が必要です。私たちは海外展開を試みる企業のチャレンジ拠点、または日本に関心を持つ現地人が日本のカルチャーに触れられる場所として商品販売、イベント開催、日本のものづくり体験ができる「CHALLENGE FACTORY」を5か年計画で、2028年にオープンすることを目指しています。
「チャレンジによって自信が生まれ、輝きを増す」
チャレンジは人を輝かせます。自社のありのままの価値、自社ならではの独自性に自信を持って発信していただきたい。そうすれば、必ず世界が広がることを伝えたいです。私たちのチャレンジが企業・個人問わず、どなたかの一歩踏み出すきっかけになることを願います。
私の冒険はまだまだ続きます。これからもずっと。私たちは、あなたの一歩踏み出す勇気を応援します!さぁ、一緒に冒険しましょう!!